2013年9月18日水曜日

「せいしょこさん」こと加藤清正に会いに


数年前、明治神宮にある「清正の井戸」がパワースポットとして一躍話題となった。ついには行列ができ、ピーク時は5時間待ちとも言われたものだ。

で、清正って誰?

フルネームは加藤清正。
安土桃山時代に、尾張国愛知郡(現・名古屋市)で生まれた。
豊臣秀吉に仕えて戦績を残し、秀吉没後は徳川家に引き上げられ、江戸時代に入ると肥後国熊本藩の初代藩主に。


というわけで、いざ熊本城へ!

日本史は好きでも、正直、城にはそこまで思い入れはなかった。別件のついでに訪れたとはいえ、のんきに予習もせずに出かけたことを今となっては悔やむばかり。

かっこいい!
かっこいい!
かっこいい!

不勉強なわたしにもわかった。
弧を描くようにそそり立つ石垣と、その上にそびえる天守閣。モノトーンでまとめた硬派な見た目もすてき。


なかでも、いちばんグッときたのは石垣。


カーブの具合が違う二様の石垣。その対比が本当に美しい。手前の比較的ゆるやかなのが清正時代のもので、奥の急勾配なのは、のちに城主が細川家に替わってからのもの。

清正が造った石垣は、当の熊本城からしても最大のチャームポイントらしく、公式パンフレットにも「最も優れているのが石垣です」と書かれていた。

この石垣は、勾配がゆるやか。ある程度ちゃんとした武士なら登れそうに思える。
ところが! およそ7~9mのあたりからさらに反って、目の前を塞ぐのだという。そうなったら、さすがのちゃんとした武士も限界。通称「武者返し」。
見た目も美しく、仕事もできる。なんてかっこいいんだろう!

無知なわたしにまで訴えかけてくる、清正の石垣。「清正流」と呼ばれ、江戸時代から評判だったらしい。


天守閣の最上階からの眺め。(右側のビルにくまもんが!)


さらに、本丸御殿の中も見学可。

手前は若松之間で、奥が昭君之間。
昭君之間の障壁画には、古代中国の四代美女として名高い王昭君の物語が描かれているのだそう。秀吉が亡くなり、豊臣家が傾いた時、その子である秀頼を迎えるために清正が造ったと言われている。
「昭君」は「将軍」の隠語だったとか。(てか、ダジャレ?)





熊本城の建物は復元されたものが多いが、石垣と、もうひとつ宇土櫓は当時の佇まいを残している。

ちなみに、熊本城は日本の三大名城と呼ばれている。
敷地面積は東京ドームの約21倍。茶臼山の傾斜を利用し、難攻不落の城を築いた。設計したのは、なんと清正本人。
西南戦争の際、熊本城に総攻撃をしかける薩軍は、しかしながら一兵も城内に入ることができなかったという。西郷どんは、負け惜しみに「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言ったとか、言わないとか。

すごいね、清正!



ちなみに、清正は治水、干拓にも熱心で、それがいまの熊本の基盤となった。熊本市民は、その成果を讃えて清正を「せいしょこさん」と呼ぶらしい。

清正公(きよまさこう)を音読みして「せいしょうこう」。それに親しみをこめて「さん」をつけた、というわけである。

せいしょこさん!
今回は時間が足りず、お城を全部見て回れなかったので、いつかきっとリベンジしにきますね。待っててね!



こちら、熊本銘菓のひとつ。老舗園田屋の「元祖朝鮮飴」。
品名は、せいしょこさんが、文禄・慶長の両役の際、この飴を朝鮮に持っていったことに由来するとのこと。
飴と言っても、固くはなく、どちらかというとモチッとしている。ほのかな甘さが、噛めば噛むほど口のなかに広がり、なんとも癖になる。



熊本銘菓には、お菓子の香梅の「武者がえし」というのもあるのだけれど、こちらは単品で購入してしまい、我慢たまらず食べてしまった。箱で買えばよかった。



というわけで、東京に戻って数日後。所用で神楽坂へ。
空き時間に立ち寄った善國寺で、なんと偶然にもせいしょこさんの名前を発見。つい、運命を感じてしまった。


こちらに収められている木彫りの毘沙門天像は、せいこしょさんの守本尊だったという一説があるそう。本殿の中で見ることができる(撮影NG)。


あと、東京には明治神宮以外にも、せいしょこさんの井戸がある。


桜田門の国会前交差点からほど近く、内堀通りの歩道脇に地味に現存。
この界隈は「桜田門外の変」のせいで井伊直弼の印象が強い。でも、井伊家がこの土地を拝領する前、江戸時代初期はせいしょこさんの屋敷があったのだ。

なんだかあちこちで立て続けにせいしょこさんの名前に出会って、もっと知りたくなった今日この頃。名古屋にも行ってみたいな!

(信藤舞子/teamまめ)

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