2018年6月20日水曜日

たこ焼きの話


みなさん、おはようございます。こんにちは、こんばんは。
夏でも冬でも新陳代謝だけは「いい男」。高橋健太でございます。



また、タイトルが唐突で「なんのこっちゃ」と思う方も多いと思いますが、ワタクシ実は数年前まで杉並区の阿佐ヶ谷で「うけたこ」というたこ焼き屋の店長をやっていたのです。ライターになってからは久しく焼いてはいないのですが、この週末(624日)に恩あるまめメンバー佐藤さゆりさんの引き合わせにより「たこ焼きナイト」をやることになったんです。

宣伝っぽくなるんで、詳しくはこちらのページからご覧ください(これもすでに宣伝っぽい)。

そんなわけで、この機会逃したらたこ焼き時代の話を書くタイミングがなさそうなので、今日は高橋の昔話を書かせて頂こうかなと思います。

店のアイドル「たこやん先輩」

いっちばんはじめは、高橋はイタリアンの個人店で修業をしていたのです。この時は23年やってましたね。

そこからの帰り道で、路上に真っ赤な車を停めてたこ焼きを売っているニイちゃんに出会ったのですが、これがのちにお世話になる「うけたこ」創始者の伊藤陽史さんだったわけです。

外カリ中トロでソースをつけないでも激ウマのたこ焼きと、テレビで聞くようなコテコテの関西弁は、高橋がそれまで出合ったことがないものですっかり虜になり、毎晩通うようになります。また、この伊藤さんは元バンドマンで、音楽がひと段落したあとのとある朝、目を覚ました瞬間に「あ、たこ焼き焼こう」と思い立って始めたんだとか。

「そんな人生あるんかい」と衝撃を受けたもんです。でも、何を始めるのにも遅いことはないと高橋が今でも信じていられるのは、この時にこの話を聞いていたからだと思うのです。

カウンター8席+テーブル1席の小さな店でした。

それから半年くらいして、伊藤さんは阿佐ヶ谷のすずらん通りで「うけたこ」をオープンしました。


写真はオープンして数年経ったころのものです。テイクアウトとイートイン両方兼ね備え、酒も飲める、大人が遊び場にしたくなるような店でした。

一方、そのころの高橋はというと、当時の職場で人間関係がうまくいかず、かなり揉めた末に辞表を提出。ベタな展開ですが、荷物をまとめて地元に帰ろうとしていたタイミングだったのです。

そこで、お世話になった伊藤さんに挨拶をせねばとお店に顔をだしたとき、「けんちゃん、たこ焼き焼こうや」と声をかけていただき、一緒に仕事をすることになったのです。当時の髙橋があまりにメンタルが弱すぎるのを見かねていたのかもしれません。今でもそんなに強くはないんですけどね。

最初の2年間は伊藤さんが乗っていた車「うけたこ号」を動かしてイベント出店をしてくること。

風が吹けば飛ぶような小さな車。色んな現場を駆け回った赤いヤツ。

なかなか楽しそうな車でしょう? 冬でも車内温度は40度を越え、容赦なく来るお客さんのためにひたすらたこ焼きを焼き続ける、寝ても覚めてもたこ焼き尽くしのゴキゲンな毎日を送っていました。当時は地平線の向こうからたこ焼きがゴロンゴロン転がってきて押しつぶされる夢を毎晩みるほど。そりゃ、体に染みつくわってわけですよ。なんだかんだ毎日1000個以上は焼いていたんですから。

いまも、この車のカギはお守りにしていつも持ち歩いています。やっぱり思い入れは強いもんで、相棒のように感じていましたね。

その後、法人化し、伊藤さんが忙しくなったところで高橋はうけたこ本店の店長になり、5年間お客さんと仲間に助けられながら店を切り盛りしてきたわけです。

夏の日が長い時期に「日が暮れるまで100円セール」なんかをやったり、お店に来てくれた有名アニメーターの先生にドリンク回数券のデザインをハイボール一杯でお願いしたり。ときたま相棒の「しゅん君」が入る日は、まるっきり仕事をせずに体力を温存したりと、傍から見るとかなり危うい高橋を、伊藤さんや仲間たちは本当に(生)暖かい目で見ていてくれていたんだなと思います。

奥でピースサインしているのが伊藤さん。

まあ、そんなこんなです。エピソードは書ききれないし、「じゃあ、なんであんたはライターになったのよ?」て、思う人もいるかもしれませんが、長くなるんでまた今度。機会があったら書きますね。いや、これがまた高橋のヘタレエピソードなもんで、書くのに覚悟がいるんですわ。

というところで、本日はこのへんで。たこ焼きナイト、興味がある人はきてくださいね!

ROCK KITCHEN1984たこ焼きナイト
(やっぱり宣伝するんかい!)

髙橋健太