2014年3月29日土曜日

三年経った東北へ。その3 〜東松島・閖上〜


南三陸のあと、向かったのは東松島。
一年前にはまだ少し残っていた家屋跡がほとんどなくなり、整地がはじまっていました。


そして名取市閖上(ゆりあげ)へ。
ここも津波に飲み込まれてしまった町です。



 閖上名物といえば、震災前、港での朝市。
 震災後、仮設店舗で営業していたが、こちらも見事、港での復活を果たしていた。毎週日曜開催のゆりあげ港朝市では海鮮丼やら、天ぷらパン(!)やらが勢揃い♪

 そんななか、閖上日和山で出会ったのが、長沼俊幸さん。
 3年前のあの日、仕事先から自宅の様子を見に戻り、再び仕事に戻ろうとした矢先、津波がやってきたとのこと。急ぎ自宅2階に駆け上ったものの、家ごと流された。どんどんあがってくる水に追われて、屋根裏の窓から波に浮かぶ瓦礫を伝い、屋根の上へと這い上がると、目の前に信じられない光景が広がっていたという。そしてそのまま一昼夜漂流。夜になると屋根瓦は寒さと雪で凍り付き、体が張り付いて身動きできない状態だったそう。

 無事、翌日の夕方に救助にきたボートに助けられた長沼さんは、現在、仮設で暮らす。長沼さんの目下の願いは、住み暮らした閖上に戻りたいということ。
 ところが、それを阻むものがある。

九死に一生を得た長沼さんは、閖上愛が深い

震災前と後の様子がわかるパネル

 港付近の住宅地は、震災前“市街化区域”。内陸側に“市街化調整区域”がある。一般的には、市街化区域は“市街を形成している区域”。市街化調整区域は“市街化を抑制する区域”と言われている。
 津波ですべてが押し流されたのは、市街化区域だった。

「閖上の内陸部にある市街化調整区域に家を建てたいと思ったんです。別の地域から転入する人たちは家を建てていますしね。でも、津波ですべてがなくなった元・市街化区域の住民がそこに家を建てることは、なぜか許してもらえないんです。これからも閖上で暮らしたいと思っているし、早く生活を再建させたいんですが……」。

 市に陳情すれば、県の管轄だと言い、県に陳情に行けば、市の判断だと言われる。
「理不尽なことに、はまってしまった人たちが、たくさんいるんです」。

 再建を手助けしなければならない立場の人が、かえって前向きになった人々の壁となって立ちはだかっている現実が、ここにはあった。

(佐藤さゆり/teamまめ)

2014年3月27日木曜日

三年経った南三陸から南相馬へ。その2〜南三陸〜

 宮城県南三陸町は漁業の町だ。3月末まで出荷が続くふくよかな養殖カキに、しゃぶしゃぶしたらポン酢をかけるだけで肉厚で歯触りがたまらんワカメは今が最盛期。4年目に入る今年には、発祥の地ならではの味「銀鮭」やホヤの出荷も始まるそうだ。
これが採れたての南三陸ワカメ。
一度食べると、ワカメの旨味に驚愕する!
 風光明媚な景色を望む場所に民宿「下道荘」がある。志津川袖浜地区は、震災前まで10軒の民宿が立ち並び、豊かな海の恵を食べ、夏の海水浴でにぎわっていたという。しかし、8軒が被災。もう1軒は後継者がいないこともあって再開を断念し、高台移転を果たして営業を再開できたのはここだけだ。

 まだまだ仮設住宅に暮らす人が多い地区。それゆえに、住民たちの行動範囲は狭まり、以前のような気持ちの通じ合う仲を続けることが難しくなっていると、ご主人の菅原さんは嘆く。それでも「自立の準備段階に入ってきている気がするんです」と前を見据える。「カキもワカメもそろそろ終わりの時期ですけど、春は毛ガニ(ツクモガニ)が捕れて、これのミソがうまいんですよ」と、顔をほころばせた。
下道荘から望む志津川袖浜はため息もれる美しさ

「俺たち、若者の力でこれから千年続く祭りを作りたいんですよ」
と、頼もしい言葉を放つのは、31〜32才の若手主導の「ふっこう青年会」を立ち上げた工藤大樹さん。仲間や顔見知りが各地に散って暮らすなか「でっかい祭りや、楽しみな祭りがあれば、それをきっかけに町に顔を見せると思うんですよ」と期待に胸をふくらます。
 
 南三陸には小さな神社が点在し、神輿、山車、竜が踊りながら練り歩くなど、それぞれが独自の伝統芸能文化を育んでいた。「モノも人も失くしたけれど、年寄り衆に聞いたりしながら俺たちが覚えて、全部まとめたでっかい祭りができたらいいですよね」と笑う。
 
 でっかい祭りにはまだ至らないが、手始めに町のみんなが楽しめるイベントはすでに勢力的に行っている。「もともと復興市の手伝いからはじまったんですが、やっぱりお祭りは楽しいですから」と、ローションを塗ったボールで戦う“ぬるぬるドッチボール”や、最新歌謡曲で踊る盆踊りなどを企画・主催。イベントを通じて若手に活力が戻り、交流が増えた事で、長老衆も何かと協力してくれるようになったという。

「とりあえずやってみる。勉強もして、どんどんアイデアを出して議論して、行政にも関わっていきたいですね。新しい町が出来上がってしまう前に、町をちゃんと作っていきたいんです。これからを担う子どもたちのためにも」。

 まだまだ埋もれている若手を引き込みつつ、育成していくことで、町自体をも活性化させようと、工藤さんは意欲を燃やしている。


(佐藤さゆり/teamまめ)


2014年3月25日火曜日

三年経った南三陸から南相馬へ。その1〜南三陸〜

宮城県南三陸町は、身が柔らかく味がのっておいしい志津川タコをはじめ、海の幸が豊かで、のどかな漁師町だった場所だ。

未曾有の大地震と大津波からまるっと3年。
震災以降、ITで支援を続ける「ITで日本を元気に」による、恒例の東北沿岸部視察に同行して再訪してみると、瓦礫の撤去が終わり、盛り土が始まっていた。しかしまだ、だだっぴろい空き地のように茫漠な風景は広がっている。

でも。
線路だったところ(全部ではないけど)を今はバスが走って、
住民の足が復活。こちらはそのバス停。まるっこくてモダン。

仮説店舗の商店が軒を連ねる南三陸さんさん商店街では
モアイ像がお出迎え

伝統的な神棚飾りの「きりこ」で再現された南三陸の情景

歌津地区にある「伊里前 福幸商店街」は
色鮮やかな大漁旗がはためいて格好いい
さんさん商店街の隣にある『南三陸ポータルセンター
建物は組み立て式で移設可能なモデル建築。

「うちの町は人々を引きつける力のある町民がたくさんいるんです」
と、南三陸町観光協会の宮川さんの声は明るい。

 木の香に満ちた南三陸ポータルセンターには、さまざまなイベントのちらしが置かれている。レンタサイクル、語り部、アート工房などなど。モノづくりが好きな人、漁師さんたちなど、さまざまな得意分野をもつ地元住民がイベントの主役だ。

「情報は現場に落ちていますから」と、スタッフがどんどん町に出向き、さまざまな情報をひろい集め、イベントやワークショップを自力で企画し、発信。震災後、気力がでなかった人々のなかには、そんなイベントに参加するうち、観光で訪れる人々からは新たな刺激を受け、住民同士で交流を育み、生きがいを見いだした人もいるという。しかも、交流を重ねることで、新たな地域ネットワークも紡がれようとしている。

さらには、「これからは、公益性と収益事業に取り組みます」と、宮川さんは目を輝かせる。被災地だからこそ意義のある「防災キャンプ」など学びのツアーや、アート・漁業での独自商品の開発、そして今まで目を向けていなかった森林間伐材を資源としたビジネスも視野に入れているという。

“支援を必要とする被災地”から“自立した魅力ある町”へ。
南三陸町は、その一歩を確実に踏み出していた。

(佐藤さゆり/teamまめ)