その軍団の名前は、ITで日本を元気に!
その名の通り、IT業界で気を吐く、気骨ある人たち揃いだ。
軍団は震災後、気心のしれた近所付き合いが断たれ、バラバラに仮設に入居する人々の地域コミュニティを解消するため、スマホ、タブレット、PCを設置や、通信網の復旧などに尽力している。
そんな彼らが3月11日を前に、
改めて被災地の視察を敢行するというので、便乗させてもらった。
最初に向かうのは、宮城県石巻市。
津波に呑みこまれた爪あとは、まだあちこちに残っている。
でも、一年前に比べれば、瓦礫の山並みは小さくなり、焼きつくされた小学校のグラウンドでは、子どもたちが歓声をあげて元気に走り回っていた。
ちょっぴり嬉しくなったのもつかの間、
次に向かった東松島には、荒涼とした風景が茫漠と広がっている。
周辺にある田畑は、今年も、作付けできないかもしれない。
それでも、何度もこの地を訪れている軍団のおじちゃんに言わせれば
「倒壊家屋がだいぶんきれいに取り壊されて、瓦礫もだいぶん片付いてきたねぇ」
とのこと。さらに南下して、名取市閖上地区へ。
漁港や魚市場があって活気に満ちていたという場所だが・・・・・・。
人々が愛していた魚市場は、町中の仮設店舗でどっこい営業を再開し、客たちとの再会を果たしていた! ここでは海鮮丼だって食べられるそうだが、食べ損ねたのが無念なり。
さらに福島県へ。南相馬市では、ここで子育てをする人たちに、水を配り、遊び場を提供し、母親たちのコミュニティの場を作っている場所があった。
心をえぐる現実を目の当たりにしながらも、少しづつ前を向いている人たちがいる、ということに、胸をなでおろす自分がいたのだが・・・・・・。
今回、立入禁止の規制が解除されたばかりの区域にも足を伸ばさせてもらった。
場所は、福島県南相馬市小高地区。
原発から15kmほどに位置する場所だ。
地震が起き、津波もきた。でも、本当の恐怖はその後だった。
「事務所を片づけていたとき、ガス爆発のような音がして、ふと窓の向こうを見たら、白い煙がぼんっと上がったのを見たんです」。
この町で暮らしていた久米さんは当時の光景を思い出してか、声を震わせた。
町の人々はその後一斉に、散り散りとなって避難の日々に突入。家族でさえ、バラバラで暮さねばならなくなったという。
それでも20km規制がとけた今、住民がぽつぽつと自宅に戻り、荒れた家を片付けている。
処理場が決まっていないため、ゴミは各家々の前に山積みとし、
町の水甕が汚染されているため、蛇口をひねっても水道は出てこない。
復旧は、いまだ見通しが立っていないという。
「事務所だったこの場所は、たまたま井戸水が出てね、検査したらヨウ素もセシウムも不検出だったから、掃除には使えました。でもね、やっぱり飲む気にはなれないです」。
煮沸しても?という愚問に対しては、ただただ諭すように
「放射能は消えてなくならないんですよ」。
それでもこの町で、銀行と郵便局を再開する動きがあるという。
「子どもたちは帰ってこないでしょう。でも、年寄りのなかには帰ってきたいと思っている人たちがいるんです。ここで暮らしていいのなら、私はその人たちの力になりたいんです」。
町をぐるりと見てみた。
里山があり、商店街があり、かつて城下町だった小高地区は、久米さん曰く
「心が豊かな町」だったという。
そんな町は、たまたま強い風が吹く日だったからかもしれない。
たまたま冬日だったからかもしれないが、今、人影はおろか、生き物の気配は・・・ない。
日が暮れれば街灯は灯る。
けれど、家々の窓から温かな団らんの明かりがもれてくることは決してない。
それでも広々とした田畑は、今も適度に手が加えられている。帰ってくるその日のために。
放射能は収束するどころか、今も垂れ流され続けている。
となると、ここに人が暮らせる日はいつなったらくるのだろう。
そんな日が本当にくるのだろうか。
目ではもちろん、匂いも、感触も、音もなく、五感をフル稼働しても、放射能の気配をつかむことはできない。それでも、放射能はこの地に降り積もっている。
かつて満州を追われた開拓民たちは、那須を切り拓き、新たに生きる場所を作ったという。
集団就職した人々のなかには、新天地で家族と暮らしている人も多い。
かくいう私も、故郷を出て、東京で暮らしている一人だ。
並べて考えてはいけないけれど、
故郷という言葉には、家族をはじめ、大好きな人々と生きる場所、という意味もあるんじゃないか、と思ったりもする。
新たな場所に、故郷を作ることはできないものだろうか・・・・・・。
未来がまったく見えない状況の南相馬の人々は、今、そんな問題に直面している。
(teamまめ/佐藤さゆり)
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